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元フォークダンスde成子坂・桶田敬太郎さん死去

 お笑いコンビ「フォークダンスde成子坂」でボケを担当していた桶田敬太郎さんが、昨年11月に亡くなっていたことが発表された。自身が社長を務めた会社のサイトで発表された文章はこちら。↓

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 桶田さんの元相方・村田渚さんは2006年に30代半ばで亡くなり、当時彼の訃報は衝撃を受けたものだが、私にとっては今回の桶田さんの訃報の方がより喪失感を覚えている。私が現在、40代半ばまで年を取ってしまったからかもしれない。

 私がフォークダンスde成子坂を初めて見たのは大学1年の冬であった。当時の私はテレビを持たない生活を送っていたが(現在もそうだが)、体を壊して1週間ほど入院することになった。

 入院中に病室のテレビでたまたま見たのが当時のネタコンテスト番組「GAHAHAキング決定戦」(朝日系)。成子坂の2人はチャンピオンとして出演していた。

 チャンピオンとしての出番前にMCの久本雅美とかが「桶田くんはすごい天才」と言っていた記憶がある。成子坂が披露したのは桶田が画家に扮したコントだったかな。

 村田に鉛筆で描いた人物画を見せるのだが、よく見るとその人物には耳が描かれていなかった…というボケをしていた。私は爆笑こそしなかったが、耳を描かないボケには(なるほど、天才と言われるのも分かるな)と知ったかぶりをした。

 

 それから次に成子坂を見たのが「ボキャブラ天国」(フジ系)。当時は視聴者投稿ネタが中心で、後に「キャブラー」と言われる芸人たちはまだ「ヒットパレード」の1コーナーでの出演だった。

 成子坂も常連出場者であったが、私がボキャブラを見だした時期は爆笑問題やBOOMER、つぶやきシローが上位を占めていた。成子坂はやや精彩を欠いていた印象がある。実際は「港のヨーコヨコハマヨコスカ」のメロディー(村田のスキャット)に乗せて「パンダあの頃ナンバー1」などの秀作を披露していたが、それらは俺がボキャブラ見始める前だったろうな。

 

 1996年秋、芸人を主体とした「タモリのSUPERボキャブラ天国」がスタート。以降、番組は半年ごとに「新」「黄金」「家族そろって」「続」「歌う」と装いを変え、約3年続いた。

 成子坂はその半分に当たる「黄金」まで出演。爆笑問題、BOOMER、ネプチューン海砂利水魚(現くりぃむしちゅー)の壁は厚くキングはおろか上位進出も厳しいたたかいが続いたが、カウンタック→ガン太くん」という鮮烈な名作も生み出した。スタジオでは「ガン太くんって誰?」と大ウケし、司会のヒロミがその場でガン太くんの似顔絵を募集したほどである。(後日の放送で優勝作品を発表)

 成子坂が「SUPER」以降、最初で最後のキング獲得となったのが「黄金」第2回放送分。スタジオでは常にクールで口数の少なかった桶田だったが、この回のキングが確定したときに「よーし!!やったー!!!」と絶叫し、喜びを爆発させたことは忘れ難い。

 

 成子坂は「ボキャブラ」シリーズが終了する1999年に解散。桶田、村田の2人とも所属のホリプロを退社した。当時はボキャブラブームも終息し、雑誌では「出演していた芸人には冬の時代が来る」とも書かれていた。

 そんな中で桶田がバンド活動を始めると聞いたときは「冬の時代に備えてお笑いに見切りをつけるのか、彼らしいな」などと私は思ったものである。数年後には桶田は放送作家など裏方としてお笑いに再び関わりだしたのだが、それも彼らしいと感じた。

 

 「GAHAHAキング」で同じチャンピオンに輝いた爆笑問題太田光は。桶田について「天才過ぎて売れなかった」と評した。私は「いつか彼の才能に再び光が当たる日が来るんじゃねえかな」と漠然と考えることがあった。早すぎる死は、ひたすら残念である。

 故人のご冥福を祈ります。